研究内容

研究の基本的なスタンス

私のもともとの専門は認知心理学ですが、学位取得後は臨床・実践領域の研究者との共同研究に取り組む機会が増え、現在は発達心理学や教育心理学が専門になりつつあります。不登校、いじめ、自殺などの深刻な行動問題をどう防ぐか、また、発達障害やその他の心理特性をどうアセスメントするかなどについて研究するとともに、心理学の研究やデータ解析をどう進めるかという原理・方法論的な側面にも関心を持っています。私自身は心理臨床や保育・教育などの実践の経験を持っていませんが、裏方として、そうした実践やそれに関連する政策形成をバックアップできるような研究知見を積み重ねていくことを目指しています。一言でいえば、この世界で生きにくい思いをしている人を一人でも減らしたい、というのが研究の根本的な動機です。

下の図は私の研究の基本的な構想を示したものです。人の心の仕組みを扱う心理学は、本来、人間に関わる非常に広い範囲の社会的課題の解決に貢献できるポテンシャルを持っているはずですが、実際にはそれが十分に発揮されているとは言い難い現状があります。その原因の一つは、従来の心理学研究のアプローチあるいは価値観にあったと思われます。これまでの心理学研究は、個々の研究者が独自の視点から新しい概念や仮説を提唱し、統計的有意性が見出せる最小限のサンプルでそれらを検証していくという探索型の研究が大部分を占めていました。こうしたアプローチは、研究領域の発展期においては重要な役割を果たしますが、それだけでは系統的な知識体系の構築にはつながりにくい面があります。一方、近年では科学研究の再現性の問題が取り沙汰される中で、既存の多様な仮説を大規模サンプルやメタ分析により比較検証し、「結局のところ、何がどれだけ効いているのか」(効果量)を正確に推定する確証型の研究が求められています。また、臨床・実践の領域では、医学領域から波及して、科学的なエビデンスをより積極的に実践に取り入れようという「エビデンスに基づく実践」の理念が広がってきています。これら2つの流れは、科学領域と実践領域という異なる源流から生じてきたものの、「新奇なアイデア」よりも「確かなエビデンス」を求めるという方向性においては共通しています。心理学を真に人の暮らしに役立てるためには、高い再現性を持った確かな知見を蓄積していく必要があります。

私は基礎研究者でありながら多様な応用研究に関わってきた自分の担うべき社会的使命を「翻訳者」であると認識しています。心理臨床家、教師、親、行政、政策立案者などのステークホルダーの疑問を科学的なリサーチクエスチョンと研究デザインに翻訳し、それによって得られたエビデンスを現場で利用可能な形に再度翻訳して、ステークホルダーに還元する。「必要は発明の母」という言葉もあるように、そういう仕事を続けていくことが、社会貢献はもとより、心理学の学術的な発展にもつながっていくと確信しています。こうした考えに基づき、以下のような複数の研究を並行して進めています。

現在進行中のプロジェクト

科学研究費補助金 基盤研究(B)多変量大規模縦断研究による動機づけの精神病理抑制効果と発達メカニズムの解明(研究代表者)2021~2025年度

本研究では、これまで主に学習・教育の文脈で研究されてきた動機づけ概念が、精神的健康の促進要因としても重要な役割を果たすというモデルを提唱し、①動機づけの状態が、多様な行動問題(不登校、いじめ、自傷行為、非行など)の抑制にどのような貢献を果たすのか、また、②個体発生の過程において、動機づけやその背後にある心理特性がどのように形成されるのかを検証しています。乳幼児から中学生までの約1万名を対象に5年間の系列的縦断研究を実施し、発達精神病理学モデルの再構築につながる基盤的エビデンスの提供を目指します。

科学研究費補助金 基盤研究(B)発達障害特性と二次的な情緒・行動問題の因果的連鎖に関する大規模縦断研究(研究分担者)2023~2027年度

発達障害特性のある子どもは、対人関係の問題や多動性、不注意などの特性により、抑うつ、不安、不登校、自傷行為、非行、触法行為などの二次障害を経験することが少なくありません。本研究では、乳幼児から中学生までの約1万名を対象とした5年間の大規模コホート調査によって、発達障害特性が二次障害につながるメカニズムを、個人と環境の相互作用の観点から解明することを目指します。

文部科学省 少人数学級及び外部人材活用に関する効果検証のための実証研究(リサーチマネージャー・副統括リーダー) 2022~2025年度

小中学校のクラスサイズ(学級人数)は、欧米諸国では20人前後に設定されていますが、国内ではその約2倍にあたる40人学級が長らく採用されてきました。そのような中、2021年度から全国の小学校で約40年ぶりに学級人数の上限が引き下げられ35人学級が導入されました。本研究では、この少人数学級制度の効果を検証するため、国内の複数の自治体で4年間にわたる大規模な縦断調査を実施しています。

厚生労働科学研究費補助金(障害者政策総合研究事業)療育手帳の交付判定及び知的障害に関する専門的な支援等に資する知的能力・適応行動の評価手法の開発のための研究 (研究分担者)2022~2024年度

療育手帳制度は、知的障害児者への福祉の増進を目的として1973年から運用されていますが、療育手帳の判定方法および障害等級の基準は都道府県及び指定市等ごとに異なっており、申請者・家族への負担や居住地による不公平を生じさせています。また、国際的な診断基準では知的障害の診断にあたり、知的能力に加え、適応行動の評価を行うことが求められていますが、療育手帳の交付判定では必ずしも十分な適応行動のアセスメントが行われていない現状があります。本研究では、こうした問題を解決するため、知的機能と適応行動を包括的かつ簡便に評価できるアセスメントツールABIT-CVの開発と標準化を進めています。

富士通・お茶の水女子大学AI倫理社会連携講座(心理学チーム研究者)2023~2025年度

富士通のAI倫理技術とお茶の水女子大学のジェンダード・イノベーション研究の知見をもとに、世界に先駆けて、AIを活用した定量的かつ客観的なジェンダー平等施策を可能にする共同研究を行うとともに、その遂行を担う広範な領域に精通した人材の育成を進めています。
本プロジェクトの目的であるジェンダーバイアスのない公平な人材評価AIの開発を実現するためには、現在の労働市場における人材評価(AIにとっての学習データ)にどのようなジェンダーバイアスが働いているかを明らかにすることが必要になります。心理学チームでは、労働経済学と心理学の枠組みを融合した体系的な調査により、新卒採用におけるジェンダーバイアスを定量化することを目指します。

科学研究費補助金 基盤研究(B)自閉スペクトラム症児への発達特性の変化を考慮した司法面接の適用に関する縦断的研究(研究分担者)2021~2025年度

児童虐待をはじめとした事件・事故の被害児童や供述弱者への被害事実の聴取では「司法面接」とよばれる面接手続きが用いられますが、自閉症児・者を対象とした司法面接の研究は少なく、どのような配慮や工夫が必要となるか明確となっていません。本研究では、縦断的なデータ収集にもとづき、自閉症児の発達特性や個別性を考慮した司法面接の効果検証を行うことを目的としています。

科学研究費補助金 基盤研究(C)適応促進モデルに基づく新たな発達障害学生支援プログラムの開発と検討(研究分担者)2022~2026年度

本研究は、大学生を対象にした4年間の縦断調査により、大学生の発達障害特性が不適応を生じさせるプロセスと、高い発達障害特性を有する学生の能力を十分に発揮させる要因を検討しています。このエビデンスに基づき、不適応の予防と能力発揮促進を柱とする“適応促進モデル”による支援プログラム開発と効果測定を行います。

子どもの発達とメンタルヘルスに関するコホート研究

不登校、いじめ、自傷、非行など、児童期から思春期にかけて顕在化する深刻な情緒・行動問題の生起メカニズムと予防の方策について、単一市内全数調査によって探る大規模コホート研究を進めています。調査の継続期間(2008年度から現在まで継続実施)、追跡期間の長さ(乳幼児期から思春期)、サンプルサイズ(年に約12,000名を対象)の点で、心理学領域における縦断研究としては国内最大規模の研究です。
児童青年のメンタルヘルスや精神病理に関して、欧米では国の主導によるものも含め多数の大規模縦断研究が行われ(米国のNational Longitudinal Surveys、英国のMillennium Cohort Study、ドイツのNational Educational Panel Studyなど)、その膨大な研究知見は実践や政策形成の重要なエビデンスとして活用されています。しかし国内では、メンタルヘルスを主たる研究対象とし、心理社会的要因までを包括的に考慮した大規模な縦断研究は、ほとんど行われていません。
中京大学現代社会学部の辻井正次教授を中心とした本研究プロジェクトでは、2007年から継続して調査協力市の全ての公立小中学校と公立保育所の在籍児およびその保護者・担任教員を対象とした大規模な縦断コホート調査を実施しています。その調査データをもとに、気質、知能、発達障害特性、性別違和感などの個人要因と友人関係・家庭環境・ソーシャルサポートなどの環境要因の相互作用が、メンタルヘルスの悪化を介して思春期の様々な問題行動(不登校、自傷行為、いじめ、非行)を引き起こすメカニズムについて包括的に検討しています。
本研究の成果について、これまで国内外の学術誌に60以上の論文を発表してきました。具体的には、クラスサイズ(1学級あたりの人数)の拡大が小中学生の学業と情緒の両面に望ましくない影響をもたらすこと、幼少期に評価された発達障害特性が就学後の不適応を長期的に予測すること、性別違和感が(特に男子において)友人関係適応や精神的健康の重要な阻害要因となること、不登校の兆候を過去数年の心理社会的適応の軌跡によって捉えうることなどを示してきました。
これらの成果について、日本発達心理学会や日本教育心理学会のシンポジウムで発表した際のスライドを学会関連資料からご確認いただけます。

発達障害に関わるアセスメントツールの開発

 知的障害者・発達障害者から身体障害者まで幅広い対象の日常生活全般における適応度を評価する尺度として国際的に最もよく用いられている「Vineland適応行動尺度」の日本版やその他の発達障害に関するアセスメントツールの標準化および妥当性検証に、データ解析担当として携わっています。
知的障害児者や発達障害児者への支援を効果的に行っていくためには、個々のケースの知的水準だけでなく、種々の発達障害の症状(社会性の困難、こだわり、不注意・多動性、読み書き能力など)や日常生活における適応行動(生活能力)・不適応行動(問題行動)の状態について、客観的かつ包括的な把握を行い、それに基づく具体的な個別支援計画を策定することが重要となります。これまで国内では、知能検査や発達検査による知的能力の査定は広く行われてきましたが、多様な発達障害の症状や適応行動・不適応行動の状態については、客観的な評価ツールが必ずしも十分に整備されておらず、個々の支援者の主観的な評価に依存してきた部分が大きかったと言えます。
こうした現状を踏まえ、この研究では、適応行動の評価ツールとして国際的に最もよく利用されている「Vineland適応行動尺度第二版」を始めとして、自閉症スペクトラム障害(ASD)児者に広く見られる感覚面の症状を評価する「感覚プロフィール」、ASDの二大症状の一つであるこだわり・常同行動を評価する「反復的行動尺度修正版」などの尺度の日本版の開発・標準化や妥当性検証を行ってきました。「日本版Vineland適応行動尺度第二版」は2020年度より診療報酬の算定対象に収載され、全国の臨床現場で広く利用されています。
また、上記のコホート研究のデータに基づいて、幼児期の発達(発達障害特性)に関するアセスメント尺度TASP(Transitional Assessment Sheet for Preschoolers)を開発し、出版しました。TASPは、国内で初めての保育士・幼稚園教諭が評定する形式の体系的な発達評価尺度で、縦断研究の成果をもとに、就学後の適応を最もよく予測する重要項目を選定して作成されました。わずか35項目で、注意欠如多動性障害(ADHD)、自閉症スペクトラム障害(ASD)、発達性協調運動障害(DCD)の兆候を包括的に評価できます。
2018年度から厚生労働省社会福祉推進事業の枠組みで進めてきた研究では、無料定額宿泊所や救護施設などに入所する生活困窮者の実態把握調査により、生活困窮者の多くが軽度の知的障害や発達障害の症状を有しており、自立した生活を営む上で困難があることが明らかになりました。こうした支援ニーズを心理学的な専門知識のない福祉事務所のケースワーカーなどが容易に把握することができるよう、タブレット端末を用いたABIT(Adaptive Behavior and Intelligence)というアセスメントツールを開発しました。ABITでは、知能、適応行動、発達障害特性、精神的・身体的健康など、日常生活適応に影響する特性を30分程度で包括的に測定することができ、全国の行政機関や福祉施設などで幅広く活用されることが期待されます。

Vineland-II適応行動尺度
SP感覚プロファイル
AASP青年・成人感覚プロファイル
ITSP乳幼児感覚プロファイル
TASP保育・指導要録のための発達評価シート

社会的感情の心理学的・神経学的メカニズム:定型発達者と自閉症者の比較

 「おもしろい」「おかしい」というユーモアの感情、反社会的行為の抑制やモラル・マナーに関わる道徳感情、幼い子どもへの肯定的働きかけを動機づける愛着感情、こうした社会的感情の心理学的・神経学的メカニズムと自閉症者における特異性について、行動実験やfMRI(機能的磁気共鳴画像法)を用いて検討しています。
人は日々の生活の中で、ちょっとした出来事におもしろさを感じ、それを他者と分かち合ったり、社会の中で共有されているルールやマナーに沿って行動したり、家庭の中で子どもに愛情を抱き、温かい態度で接したりといった行動を、特に意識することなく取っています。社会生活において重要なこれらの行動の背景には、ユーモア、道徳感情、愛着感情などの社会的感情が関与しています。こうした感情があるからこそ、人は頭の中で複雑な思考をめぐらすことなく、自然と適応的な行動を取ることができると言われています。
この研究では、そうした社会的感情の神経基盤について、認知心理学的手法と神経科学的手法を融合した認知神経科学的アプローチを用いて検討しています。具体的には、(1)それぞれの感情がどのような情報処理過程を経て生じているかについて、日常の人間行動の観察や既存の認知心理学・社会心理学の知見などをもとに仮説的モデルを構成し、(2)心理学的(行動)実験によってその妥当性を検証した上で、(3)fMRIなどの機能的脳画像法を用いて、そうした情報処理過程の神経基盤を探っていきます。
さらに、(4)定型発達者と自閉症者の間で、それぞれの情報処理過程に関わる脳部位の神経活動に差異が見られるか否かを検討することで、たびたび指摘される自閉症者における社会的感情の特異性が、どのような情報処理過程の違いによってもたらされるのかを検証します。

プレッシャーによるパフォーマンス抑制(あがり)

 発表、試合、テストなど重要度の高い場面において普段通りのパフォーマンスが発揮できなくなる現象(いわゆる「あがり」)のメカニズムについて、NIRS(近赤外分光法)によって測定された前頭前野領域の脳活動や心拍、発汗などの自律神経系活動との関連から検討を行っています。
「あがり」のメカニズムに関して、複数の心理学的仮説が存在します。これらの仮説は、(1)プレッシャーによって喚起される不安や動機づけの過剰な高まりによってパフォーマンスが低下するという覚醒仮説、(2)プレッシャーによって、複雑な認知処理に必要となるワーキングメモリの容量が減少し、(特に複雑な認知課題の)パフォーマンスが阻害されるというDistraction(注意散漫)仮説、(3)プレッシャーによって、普段は無意識のうちに遂行している認知処理に過剰な注意が向けられることで、(特に熟達した課題の)パフォーマンスが低下するというExplicit-Monitoring(顕在的モニタリング)仮説の3つに分類されます。これらの仮説は必ずしも相互に排他的なものとは言えませんが、(1)の仮説が感情や動機づけなどの情意的要素によって直接、課題遂行が阻害されると考えるのに対し、(2)や(3)の仮説は、情意的要素そのものではなく、認知的処理の変容によって課題遂行の阻害を説明しようとする点で異なっています。(2)と(3)の仮説は、互いに異なる認知的メカニズムを想定していますが、(2)がワーキングメモリ容量を要する複雑な認知課題、(3)が熟達し自動化された認知課題や運動課題における遂行阻害を説明の対象としている点で、互いに相補的な関係にあると言えます。
これまで、NIRSや自律神経系指標を用いた複数の実験を実施した結果、不安感情などの情意的要素を反映する自律神経系指標よりも、NIRSによって測定される前頭前野(ワーキングメモリや顕在的な認知活動に関わるとされる脳領域)の過剰な活性化が、認知課題における遂行阻害と関連することが示され、(2)や(3)の認知媒介説が支持されています。

参考資料

四谷学院によるインタビュー記事です。研究の内容や動機などについて述べています。

お茶の水女子大学 基幹研究院 人間科学系 伊藤 大幸 先生

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